コラム

長谷川平蔵が教えてくれたイノベーション

OKIソフトウェア DX・新事業推進統括部の松山です。
当部は社内での新規事業の開拓や、技術者の育成、イノベーション活動の推進を主に担当していますが、そういう堅いお話は他の方に任せて、日頃の生活で思うことや、本や映画から感じた事をゆる~く書かせてもらおうと考えています。仕事の合間の息抜きにでもなれば幸いです。

ところで皆さんは「鬼平犯科帳」をご存知でしょうか?
池波正太郎原作の時代小説のベストセラーで1967年から文芸春秋社のオール讀物で連載され、その後文庫本、マンガ、映画、テレビドラマなどになり、今でも熱烈なファンを持つ池波正太郎の代表作の一つです。文庫本は全24巻で1990年(平成2年)に作者逝去により絶筆となりました。


鬼平犯科帳


池波正太郎『鬼平犯科帳』(文春文庫)

鬼平犯科帳のテレビシリーズは主人公の長谷川平蔵を八代目松本幸四郎(後の白鸚)が演じた初版(NET、現テレビ朝日)から、丹波哲郎(NET)、萬屋錦之介(NET)、中村吉右衛門(フジテレビ)などそうそうたる役者が演じました。
特に中村吉右衛門版は全9シリーズ、スペシャルを加えると149話が制作された大ヒット作品となりました。このシリーズはバブル期のグルメブームと重なる1987年に放送開始されたこともあり、劇中で使われる料理がフォーカスされる場合が多く、原作には無い「猫どの」と呼ばれる、ちょっと料理にうるさい同心、「村松忠之進」が登場します。
エンディングには、江戸の四季を表現した映像に加えてジプシー・キングス(Gipsy Kings)のインスピレイション(Inspiration)という音楽が使われています。フラメンコを思い起こす哀愁のある曲で「時代劇には不釣り合いでは?」と一瞬思いますが聞くうちに、これが何とも江戸の情景にマッチしているように感じるのです。ファンの中には「エンディングまで見ないと見た気にならない」と言うディープな人もいました。

演じる役者やグルメ、音楽などヒットの要因は多々ありますが、連載から50年以上たっても、人々を魅了してやまないのは、やはり原作に描かれたストーリーや、登場人物に多くの人が魅力を感じているからではないでしょうか。

長谷川平蔵が生きた時代

主人公の長谷川平蔵は江戸時代中期(1745ー1795)に実在した旗本で、「火付盗賊改方」を務め、「人足寄場」を創設した人物として知られています。時代劇で良く耳にする町奉行所が行政と警察をあわせもった組織であったのに対して、「火付盗賊改方」は、その名の通り「火付け」や「盗賊」など凶悪犯罪を扱う一種の特別警察と言える組織です。
では、長谷川平蔵が生きた天明・寛政とはどういう時代だったのでしょうか。

調べてみるとあまり良い時代ではなかったようです。
悪天候や冷害によって東北地方を中心に農作物の収穫が減少しているなか、天明3年(1783)4月に岩木山(青森)が、7月には浅間山が噴火、さらに浅間山の火砕流が吾妻川を下り、大量の土砂が利根川に流れ込んだ結果、天明6年(1786)に大規模な洪水(天明の洪水)を引き起こします。これらがきっかけとなって江戸四大飢饉に数えられる天明の大飢饉が発生し、餓死者は全国で数万人にのぼると推測されています。天明7年には米の価格高騰などにより困窮した庶民によって、打ちこわし(天明の打ちこわし)が全国で同時多発的に発生します。生きるために家を捨て、土地を捨てた農民や町人は都市部に流入し、生計のたたない者は悪事に手を染め、盗賊に身をやつす者もでたことでしょう。
そんな混沌とした天明7年に平蔵は「火付盗賊改方」の長官としてデビューします。

原作に見る平蔵の人となり

長谷川平蔵は、本名を宜似(のぶため)、幼名を銕三郎(てつさぶろう)といい、400石の旗本長谷川宣雄の長男として生まれ、28歳の時に父 宜雄の死去により家督を相続したとなっています。当時の大名や旗本の家系譜は「寛政重修諸家譜」に記録されていますが、平蔵の母の名は不明となっていて、どうやら正妻の子では無かったようです。青年期には放蕩無頼の生活を送り「本所の銕」とあだ名され、所では一目置かれる存在だったことは原作の通りだったようです。鬼平犯科帳第1巻「唖の十蔵」のなかに、「火付盗賊改方」の前任者である堀帯刀が解任され、長谷川平蔵に代わるにあたって、古参の与力が平蔵のことを指して次のように噂しています。

「今度の御頭はな、お若いころ、本所三ツ目に屋敷があってな、そりゃもう、放蕩三昧で箸にも棒にもかからなんだお人らしい」
「遊ぶことも遊んだが、本所深川へかけての無頼の者どもが、鬼だとか、本所の銕だとかいって、大いに恐れていたほど顔が売れていたそうな」
出典:池波正太郎「唖の十蔵」(文春文庫刊『鬼平犯科帳(一)』所収)

平蔵の時代より少し前に江戸町奉行を務め評判の高かった大岡越前守忠相がサラブレッドなら、長谷川平蔵は叩き上げの苦労人と言えます。
継母に妾腹の子と言われ、家には寄りつかず本所深川界隈で放蕩三昧な生活をしますが、そこで目にした市井の暮らしや、はびこる悪を目の当たりにすることによって、平蔵は善悪に対しても達観した考え方を持つようになります。
池波正太郎は鬼平犯科帳の中で様々な盗賊を描いています。冷酷無比で残忍極まりない盗賊もいれば、何処か憎めない人情味にあふれた盗賊もいます。盗賊ですからどちらも悪人であることに変わりはないのですが、平蔵はこれを百羽一絡げに断罪するのではなく、捕縛しながらも以後は自分の密偵として働かせる時もありました。

これらが後の「火付盗賊改方」の実績に繋がっていきます。

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
出典:池波正太郎「谷中・いろは茶屋」(文春文庫刊『鬼平犯科帳(二)』所収)

幕閣のなかには、この実績をねたみ、過去の素行をあげつらって快く思わない人達もいますが、平蔵はそれらの言葉に耳を貸すことはありません。独断と言われようと、中傷をうけようと信念に従って正しいと思うことを実行し、その結果が失敗と断じられれば潔く責任をとる…これが平蔵の魅力です。

変化を好まない人、責任を恐れ自ら動かない人…心当たりありませんか?
最近理想の上司として平蔵を取り上げた記事を多く見かけますが、確かにこのような上司であれば「ついて行きます!」と言いたくなるのも理解できます。

「おれの仕様がいかぬとあれば、どうなとしたらよい。お上が、おれのすることを失敗と断じて腹を切れというなら、いつでも腹を切ろう。
(中略)
あは、はは……ばかも休み休みいえ。悪を知らぬものが悪をとりしまれるか」
出典:池波正太郎「蛇の目」(文春文庫刊『鬼平犯科帳(二)』所収)

長谷川平蔵は江戸時代のイノベーター?!

長谷川平蔵の功績として「人足寄場」の設立が有名です。
「人足寄場」とは一種の更生施設で、軽度の犯罪人や無宿人を集めて仕事を与え、手に職を付けさせます。仕事にはきちんと賃金が支払われ、賃金の一部は積み立てられて出所の際に渡されます。
従来の刑が懲罰を与えることに主眼がおかれたのに対して、「人足寄場」は更生を目的とした、言ってみれば今の刑務所に近い制度だったと考えられます。飢饉によって都市部へ流入してくる無宿人が増えることによって増加する犯罪を食い止めるためには、従来の懲罰だけでは限界があり、手に職を付けさせて生計が立つようにさせることこそ必要と考えた平蔵が老中松平定信に進言して実現した制度です。

この考え方は当時としては革新的で「無宿者に仕事を与え、賃金を支払うとは…」と考えた幕閣もいたことでしょう。
平蔵も何度か建言を行っては、反対勢力に差し戻されたようです。

「浮浪の徒と口をきいたこともなく、酒をのみ合うたこともない上ツ方に何がわかろうものか。何事も小から大へひろがる。小を見捨てて大がなろうか」
出典:池波正太郎「殿さま栄五郎」(文春文庫刊『鬼平犯科帳(十四)』所収)

この「人足寄場」を維持するために行った手法も、なかなか画期的です。

「人足寄場」の管理は「火付盗賊改方」が担当し(後に町奉行所が担当)、経費は幕府から支給されていました。しかし支給額は微々たるもので不足分は平蔵が身銭をきって補填していましたが、さらに思い切った施策を打ち出します。平蔵は幕府から資金を借りて、それを銭相場に投資したり、「人足寄場」の用地の一部を商人などに貸したりして運営資金に充当しました。相場で下手をすれば損失をまねく場合も考えられますが、過去に縛られない自由な発想と経済感覚、それと「人足寄場」にかける強い想いがそれを可能としたのでしょう。
これら平蔵の努力によるものなのか、「人足寄場」の制度は明治になるまで続くことになります。

昨今イノベーションが盛んに叫ばれています。
それを可能にするためには前例にとらわれない柔軟な発想が必要となりますが、それだけでイノベーションが達成できるわけではありません。
従来のやり方や考え方を変えて、新たなものを生み出そうとするときには必ず反対勢力が生まれますが、実現するためには諦めることなく、自身を磨き、工夫し、説得し、理解してもらうための強い意志が必要です。
そう言う意味で長谷川平蔵は江戸時代のイノベーターと言えるのかもしれません。

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